グローバル概要

沿革

バンク・オブ・アメリカ・グループ 230年の歴史と伝統

バンク・オブ・アメリカ・グループの歩みは、まさにその社名が物語っています。母体となったマサチューセッツ・バンクは1784年7月5日に業務を開始しました。この時、アメリカ合衆国憲法はまだ制定されておらず、ジョージ・ワシントンが初代大統領に就任したのは実にこの5年後のことでした。それ以来230年にわたり、現在のバンク・オブ・アメリカ・グループの前身となる金融機関によって、米国のみならず世界の経済発展に欠かせない経営資源や資本が提供されてきました。
マサチューセッツ州知事のジョン・ハンコックにより公認され、マサチューセッツ・バンクは州で認定された2番目の銀行となり、当時の米国にはまだ3行しかなかった商業銀行の1つとして営業を開始しました。 20世紀終盤、ノース・カロライナ・ナショナル・バンク(NCNB)が数々の金融機関を買収し、最終的には数千行余りの銀行が吸収されました。それが今日のバンク・オブ・アメリカの誕生につながりました。国際的な金融機関へと発展を遂げた現在も、バンク・オブ・アメリカの本社はノースカロライナ州シャーロットに位置しています。
私どもの企業としての成長は、お客さまの成功と地域社会の発展と常に本質的につながっているという考えの下、バンク・オブ・アメリカ・グループは何世代にもわたって、お客さまと地域社会への貢献に力を尽くすことを基本姿勢とし、今日の姿へと発展してまいりました。現在のバンク・オブ・アメリカが形作される過程において、数世紀にわたりそれぞれの金融機関が引き継いできた伝統は、まさに米国の文化と経済発展そのものです。私どもの数百年にわたる歴史をぜひご覧いただき、バンク・オブ・アメリカ・グループの今後の発展の力の源を少しでも感じ取っていただければ幸甚です。

1784年

▲開業時のマサチューセッツ・バンクが位置していたマニュファクトリー・ハウス

マサチューセッツ州知事のジョン・ハンコックがバンク・オブ・アメリカ・グループの最も古い前身であるマサチューセッツ・バンクを公認。全米において州によって正式認定された2行目の銀行となる(後のバンク・ボストンおよびフリート・バンク)。当時の米国は、政治的な独立は勝ち取ったものの英国の銀行への依存が続いていた。マサチューセッツ・バンクは、新興国家であった米国の経済的自立を目指す上で極めて重要な役割を果たす。

1792年

コネチカット州とロードアイランド州それぞれにおいて最初に開業したバンク・オブ・アメリカ・グループの前身となる銀行が公認される。コネチカット・バンクの創業者はアメリカ合衆国憲法の草稿を作成し、後に最高裁判所主席判事となったオリバー・エルスワース。

1815年

▲英国軍によるワシントンD.C占拠後の米国議事堂

1812年から4年続いた米英戦争が終結しようとしていたが、英国の攻撃で首都のワシントンD.C.は壊滅的な状態に。砲火をまぬがれたバンク・オブ・ザ・メトロポリスは復興に必要な資金を提供。第4代米国大統領のジェームズ・マディソンは同銀行の創業時の幹部の1人だった。

1825年

バンク・オブ・アメリカ・グループの前身銀行は、米国発展史上きわめて重要なインフラ整備・公共プロジェクトにかかわった。一例として1825年に正式開通したエリー運河があげられる(東部の港(ニューヨーク市)と五大湖を結ぶ最初の運河)。当時世界中の運河の倍の規模だったエリー運河は、米国の都市開発に大きく貢献した。

1847年

▲ボートメンズ・バンクの女性専用銀行部門のパンフレット

ボートメンズ・バンクがセントルイスで開業。多くの銀行が門戸を閉ざしていた労働者と女性の利用が瞬く間に広がった。

1853年

▲U.S.トラストのビル

ユナイテッド・ステーツ・トラスト・カンパニー・オブ・ニューヨーク(U.S.トラスト)の開設を公認する法案が可決。ジョンA.スチュアートの斬新な発想から生まれた同社は、信託業務を専門とする米国初の金融機関として設立される。アメリカ南北戦争の最中、アブラハム・リンカーン大統領はジョンA.スチュアートに米国財務補佐官への就任を要請。資本市場の台頭によって、U.S.トラストは大型債券発行を通じて歴史に残る建設プロジェクトの資金調達に数多く携わり、米国の産業発展に大きく貢献。1855年のニューヨーク・セントラル鉄道の施設を皮切りに、パナマ運河などの案件における資金管理会社となる。

1857年

新興都市としてシカゴの発展を後押ししたのが、マーチャンツ・セービングス・ローン・アンド・トラスト・カンパニーの1857年の開設だった。共同設立者は、実業家サイラス・マコーミック、シカゴ初の市長ウィリアム・オグデン、エイブラハム・リンカーンの腹心の議員で奴隷廃止論者のアイザック・アーノルドら。

1871年

▲シカゴ・マーチャンツ・バンクが入っていたクロスビー・オペラハウスが炎に包まれる様子

バンク・オブ・アメリカ・グループの前身銀行は、自然災害後のサービス復旧に迅速に対応したことで知られる。1871年のシカゴ大火(Great Chicago Fire)が米国史上早期の例としてあげられる。他行が失われた口座に対して1ドルに対して25セントしか保障しなかった中、マーチャンツ銀行は全額補償し、預金者の信頼を得ただけではなくシカゴ復興に大きく貢献。


▲1890年当時のロサンゼルス・カウン
ティの地図

セキュリティ・パシフィック銀行の前身銀行がロサンゼルスで開業。
ロサンゼルスの発展にともない、南カリフォルニア大学、ロサンゼルス・メモリアル・
コロシアムなどのインフラ施設に投資。

1874年

▲1870年代のシャーロット商業地区

南北戦争後に南部で興った繊維産業を支えるためにノースカロライナ州シャーロットにコマーシャル・ナショナル・バンクを設立。後年、ネーションズ・バンクとなる。 

1880年

▲パナマ運河の建設

U.S.トラストは資金管理会社としてパナマ運河の建設に携わる。完成までに34年を要した同運河の開通により海上貿易は飛躍的に向上した。

1904年

▲サンフランシスコに開設したバンク・オブ・イタリー

▲ジェノヴァ近郊の小さな村出身A.P. ジャンニーニは、後に世界で最も影響力のあるビジネスマンの一人となる。

A.P. ジャンニーニが、カリフォルニアで増加する移民のニーズに応えるためにサンフランシスコでバンク・オブ・イタリーを開設。当時、移民を対象にサービスを提供する銀行は他になかった。

1906年

▲地震後、瓦礫に囲まれたバンク・オブ・イタリー

バンク・オブ・イタリーを開業2年後にサンフランシスコで地震と火災が発生し、町はパニック状態となりバンク・オブ・イタリーオフィスも崩壊した。創立者ジャンニーニは迅速に銀行業務を再開しサンフランシスコの復興に多大な貢献をした。バンク・オブ・イタリーはその後、名称をバンク・オブ・アメリカに変更することになる。

1908年

▲ハリウッド初期の撮影所

当時、映画は高リスクな新興ビジネスと考えられていたが、バンク・オブ・イタリーは映画産業に積極的に資金を供給。ユナイテッド・アーティスツ、20世紀ピクチャーズ、MGM、ワーナー・ブラザーズ、コロンビア・ピクチャーズの設立を後押し、これらの企業は「キッド」、「白雪姫と7人の小人」、「素晴らしき哉、人生!」、「風とともに去りぬ」、「ウエスト・サイド・ストーリー」など、後に古典となった数多くの名作を生んだ。

1914年

▲第一次世界大戦時の軍服姿のチャールズE.メリル(1918年)

チャールズE. メリル・アンド・カンパニーがニューヨークのウォール・ストリート7番地で営業開始。その後、エドムンドC. リンチが加わり、1915年に社名をメリル‐リンチ・アンド・カンパニーとする。資産管理会社の成功の要諦は顧客重視を貫くことにあるとの経営哲学から、同社は「平均的な投資家(Mr. Average Investor)」にターゲットを絞るという当時革新的な経営方針を打ち出す。

1919年

アニー・グライムスがメリルリンチ・アンド・カンパニーに入社し、ウォール街初の女性営業担当者に。翌年、アメリカ合衆国憲法修正第19条が批准され、女性の参政権が認められる。

1923年

ロサンゼルスで、グレース・スターマーがバンク・オブ・イタリーの女性専用銀行部門の責任者に就任。「全ての女性のための銀行」とスターマーが称した同部門は、管理職と従業員全員が女性で、「女性の利益のためだけに業務を行う」ことに特化。

1930年

▲バンク・オブ・イタリ―からバンク・オブ・アメリカ・ナショナル・トラスト・アンド・セービングス・アソシエーションへ

バンク・オブ・イタリーは、ロシア、ポルトガル、ギリシャ、メキシコ、中国移民など様々な民族コミュニティーの顧客の多様化を図る。多様化した顧客層を反映し、銀行名をバンク・オブ・イタリ―からバンク・オブ・アメリカ・ナショナル・トラスト・アンド・セービングス・アソシエーションへと変更した。

1931年

▲ニコラス・レーンに位置するオフィスの前で写真におさまる従業員

従業員13人でスタートしたバンク・オブ・アメリカのロンドンオフィス第1号が開設される。

1932年

▲ゴールデン・ゲート・ブリッジの主ケーブルの位置合わせを行う作業員

サンフランシスコのゴールデン・ゲート・ブリッジ建設という壮大なプロジェクトのために最初に発行された債券を引き受ける。当時米国最大と言われた公共事業プロジェクトは、その後のサンフランシスコの発展に大きく寄与。

1938年

▲1930年代の上海

メリルリンチが上海で初の資金調達をアレンジ。

1947年

▲東京オフィスは1947年に開設

ダグラス・マッカーサー将軍により、バンク・オブ・アメリカがアジア太平洋地域の復興を担う主要銀行の1つに選ばれ、マニラと東京で事務所を開設し、2年後にはタイにもオフィスを開設。

1951年

バンク・オブ・アメリカのドイツ第1号オフィスを開設。1950年代にはフランス、香港、レバノン、マレーシア、メキシコ、シンガポールにて次々とオフィスを開設。 メリルリンチは引き続き海外進出を推し進め、1952年には欧州初のオフィスをスイスに開設。メリルリンチの国際展開は1950年代を通して継続し、フランス、イタリア、カナダにもオフィスを開設。

1954年

バンク・オブ・アメリカが資金調達に携わったディズニーランドの建設が南カリフォルニアにて着手される。

1956年

▲会計電子記録法(ERMA)技術のデモンストレーションを行う従業員

銀行取引業にとって革命的な技術開発にスタンフォード研究所と共同従事。銀行業界で初めて導入されたコンピューターとされる会計電子記録法(Electronic Recording Method of Accounting (ERMA)) や、小切手の処理・読み取りの機械化を実現した磁器インク文字認識(Magnetic ink Character Recognition (MICR))を開発。MICRは、現在でも小切手下部に印刷された番号の読み取りに使用されている。


▲1995年当時のフォード・モーター社

同年、メリルリンチはフォード・モーター社の上場に携わり、年間の引受額が初めて10億ドルを超す。

1958年

▲当時のBankAmericard雑誌広告

全米で普及した初のクレジットカードである「BankAmericard」を発行。後にVisaRと名称を変えるクレジットカードとなる。

1960年

▲独自のテレックス・システムを使い世界中と交信する香港オフィスの従業員

▲当時のボンベイオフィス

メリルリンチが香港とロンドンでそれぞれオフィスを開設。国際ビジネスの展開は1960年代を通して続き、メリルリンチは1964年には日本オフィスを開設。また、ドイツ、ベルギー、クウェート、レバノン、フィリピン、オランダ、スペインにも拠点を設けた。一方、バンク・オブ・アメリカはブラジル、インド、インドネシア、アイルランド、韓国、オランダ、スイス、台湾に拠点開設。

1964年

▲メリルリンチ日本証券の現在の日本橋オフィス

メリルリンチ・ピアース・フェナー・アンド・スミス・エス・エイ(スイス法人)、東京駐在員事務所設置。

1971年

▲メリルリンチは1974年に市場に対する強気の姿勢を象徴する「ブル(雄牛)」をシンボルに採用

メリルリンチがシドニーにオフィスを開設。1970年代には、ブラジル、韓国、シンガポール、アラブ首長国連邦で拠点を開設。
同年、ニューヨーク証券取引所に上場。「Bullish on America」をスローガンとする。

1972年

メリルリンチ証券会社東京支店、外国証券会社として第1号となる証券業の免許を取得。

1973年

▲世界中の顧客と瞬時に双方向の通信が可能な国際口座業務電信室

メリルリンチが米国の投資銀行として初めてシンガポールの外国為替業務認可を取得。

1976年

ユーロ債市場における初の韓国企業の起債をアレンジ。

1978年

▲リーガンの訪中を取り上げた社内報の表紙

当時のメリルリンチCEO、ドナルド・リーガンが中国国際貿易見本市に出席するために中国を訪問。メリルリンチは中国の中央幹部と中国での事業展開について初めて協議した国外企業の1社だった。後年、リーガンは米国財務長官に就任。

1982年

メリルリンチ、アジア太平洋地域のビジネスの本拠地を香港に構える。

1983年

見習いとして入社したヒュー・マッコールが、ノース・カロライナ・ナショナル・バンクのCEOに就任。M&Aを通じて、小規模な地銀であったシャーロット・バンクは後のネーションズ・バンク、最終的にはバンク・オブ・アメリカへと変貌を遂げる。

1985年

メリルリンチ、公募ユーロ債市場における初のインド政府保証債の発行をアレンジ。翌年、メリルリンチはロンドン証券取引所と東京証券取引所の会員となる。当時、ニューヨーク、ロンドン、東京、トロントの各証券取引所の会員権を全て保有する証券会社はメリルリンチのみだった。

1988年

メリルリンチ、オーストラリアの商業銀行による初の公募債発行で主幹事を務める。

1992年

メリルリンチ、上海オフィスを開設。1990年代、メリルリンチは海外事業の拡大を継続し、北京、インドネシア、インド、南アフリカ、メキシコにオフィスを開設。

1993年

▲メリルリンチが資金調達のアレンジまたは株式発行を手掛けたアジアの顧客

世界の証券発行残高が1兆5,000億ドル近くまで急増する中、メリルリンチは引受主幹事として世界トップクラスの座を維持。当時、債券の有力発行体になりつつあった中国の上海で駐在員事務所を開設し、米国証券業界初の中国進出を果たした。中国政府による10億ドルの債券発行の成功に主幹事として貢献。

中国国有企業による、初にして最大規模の株式公開案件でグローバル・コーディネーターを務める。総額3億4,300万ドルを調達した上海ペトロケミカル・コンプレックス社の新規株式公開は中国企業としては初めてニューヨークと香港での同時上場となる。

1997年

▲香港のメリルリンチのオフィスビルで談笑する従業員

英国政府が香港の主権を中華人民共和国に返還。香港返還後もメリルリンチのアジア太平洋地域の本拠地は香港に継続して置かれる。

バンク・オブ・アメリカは、米国大手銀行として初めて、同性パートナーを含めた家族向け福利厚生制度の対象を拡大した制度を導入。

1998年

▲ネーションズ・バンクによるバンク・オブ・アメリカ買収を報じるシャーロット・オブザーバー紙

当時ネーションズ・バンクCEOのヒュー・マッコールはバンク・オブ・アメリカの買収により、米国全土を営業圏とする米国初の銀行という構想の実現に動く。当時史上2番目の規模となったこの買収案件により、「全米で、世界中でサービスを提供するアメリカの銀行」が誕生。

2004年

▲マサチューセッツ州ボストンのフェデラル・ストリート100番地にあるバンク・ボストンのビル

バンク・オブ・アメリカはフリートボストンを買収し、米国北東部に進出。ベイ・バンク、シュワムート、コネティカット・ナショナル・バンク、バンク・ボストンなど、買収した銀行には米国の主要大手地域銀行が数多く含まれる。

2006年

メリルリンチは経済のボーダーレス化が進む中で、お客さまのビジネスのグローバル化を支援し続ける。支援した史上最大規模の新規株式公開(IPO)となった中国工商銀行(ICBC)の上場は、は初の香港・上海同時上場となる。

2007年

U.S.トラストがバンク・オブ・アメリカの傘下に入る。これにより、富裕層顧客の資産運用ニーズに応えるための態勢が大きく強化。

2009年

世界金融危機に見舞われる中、バンク・オブ・アメリカはメリルリンチの買収を完了。統合後のブローカレッジ・ビジネスは世界最大規模となり、商業貸付、ハイイールド債、株式、M&A関連業務などを含むグローバル規模の企業金融・投資銀行ビジネスにおいても世界有数の規模となる。

2011年

▲東京オフィス

バンク・オブ・アメリカ・グループが持つグローバル・コネクションの力が市場で高く評価され、業界の数多くの賞を受賞。グローバル・ファイナンス誌の「バンク・オブ・ザ・イヤー」、インスティテューショナル・インベスター誌の「グローバル調査部門第1位」、また、バンカー誌に「ハウス・オブ・ザ・イヤー」に選出され、気候変動および持続可能性に関わる取引の面で最も革新的な金融機関だととの評価を受ける。

▲アジア太平洋地域におけるバンク・オブ・アメリカ・グループのプレゼンス

▲東北での復興支援活動

二世紀余りを経て、バンク・オブ・アメリカ・グループは実にシンプルな目的を共有する真のひとつの企業へと変革しました。そのシンプルな目的とは、あらゆるつながりを大事にし、お客さまが金融と関わる様々な面の向上に貢献することです。

私たちは米国で約5,900万の個人ならびに中小企業のお客さまにサービスを提供し、また、「米国フォーチュン500」に挙げられる企業ほぼ全てと取引を行っています。海外では、40ヵ国以上にある拠点を通して、世界の有力企業や機関投資家の皆様のパートナーとしてお役に立っていると自負しております。私たち日本に勤務する全社員は、日本のお客さまにとってグローバル市場における最も頼れるパートナーとなり、我々のグローバルな力を結集して日本と世界をつなぐお手伝いをすること、それこそが我々の最も重要な使命と考え、日々業務に従事しております。

アジア太平洋地域では12市場23ヵ所の拠点を構えており、日本市場は1947年の参入以来、常に戦略上最も重要な市場であり、今後もその姿勢が変わることはございません。